【第五話】空き店舗が売りに出たという知らせに決断、急遽帰静し、下魚朝で精肉店を再開。
親戚を頼って神奈川県横須賀市の海軍軍需工場へ出稼ぎにやって来たダイゼン(大石善作)さんは、静岡に戻って家族と共に暮らし大石精肉店を復活させるために懸命に働きました。
その頃の楽しみと言えば、静岡にはない珍しいものを横浜・東京で食べ歩くことでした。そして
ついに、ダイゼンさんは支那そば(ラーメン)と運命の出会いをしたのです。お気に入りは、麺でもスープでもなく、チャーシューでした。そして、この頃から、ラーメンのトッピングであるチャーシューを、当時人気のあった牛鍋のように一品料理(ご飯のおかず)にするためにはどうしたものか、と考えるようになったのです。
大正八年、静岡に残して来た家族から、「下魚町(常盤町二丁目)に今までより広い空き店舗が売りに出た」という知らせが送られて来ました。「下魚町なら、今までの店から近いし、またあのお客様たちにも来てもらえる」そう考えたダイゼンさんは、「こんなチャンスは二度とない」そう思い、出店を決意、静岡に戻って来たのです。
戻って来ても、土地購入、店舗改装に出稼ぎで得た収入ではまだまだ足りません。そこで、イナミ氏に資本を出していただき、下魚町の空き店舗を改装しました。店舗は間口二間、奥行き十五間。敷地面積は現在の店舗の半分以下です。ちなみに現在の店舗は常盤町二丁目七の八、七の九、七の十三と三つの番地から構成されており、店の成長に合わせて広がって行ったのです。一階建てで店舗のみ。家族の住居は、店舗向い側の長屋(現ベルナールホテル)の入り口から一軒目の家を借りて住むことにしました。
こうしてダイゼンさんは、静岡で精肉店を再開することになったのです。何より喜んだのは、息子・要弌(当時城内東小学校)であり、父親と一緒に暮らせることが開店よりも嬉しかったと聞いております。

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【第四話】開店半年後に閉店、善作は横浜に出稼ぎに行く。この出稼ぎこそがチャンスをつかむきっかけとなる。
大正六年十月に創業した大石精肉店は盛況だったと言います。その理由はいくつか考えられます。まずは、「独立した年の夏に氷販売をしていたこと」です。夏期に一般家庭に氷の宅配をしてお客様とのコミュニケーションを店主自らが常にとっていたことは、精肉店としての新規開店時における「来店客の確保」にどれだけ大きな影響を及ぼしたか図り知れません。
そしてもう一つ、善作が修行いていた「山下」のある新通りから七間町通りへと、歩いてもほど近い所に出店したことも理由に挙げられると思います。
固定客は三つに分けられると一般的には言われています。一つは「店に付くお客様」。店の経営姿勢など店の信用や商品の品質に付くお客様です。二つは「場所に付くお客様」。近くに住んでいるからとか店舗の外観・雰囲気が好きなど場所、建物に付くお客様です。そして三つは
「人に付くお客様」。店主もしくは従業員とコミュニケーションがあり、「あの人がいるからあの店で買おう」と思ってくれるお客様のことです。
「山下」時代に大石善作に付いていたお客様が多くいたという話は聞いたことがあります。
幸せなことに、独立した善作の元に多くのお客様が足を運んでくれたのでした。しかし、妻の死を乗り越えて開店し、半年間繁昌した大石精肉店ではありましたが、翌年には閉店してしまったのです。これは、自分の土地ではなく借地であったことなど数々の問題があったと伝えられています。土地を買う資金を稼ぐため、自分の父母、弟、妹に息子の要弌を預け、善作は横浜の軍需工場へと出稼ぎに向かったのでした。
これが、後の大石精肉店・伝家の宝刀「やき豚」誕生へと繋がってゆくのですから、人生とは分からないものです。「再生のための終焉」「ピンチはチャンス」という言葉は、まさにこの時の善作のための言葉だと感じています。

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【第三話】妻の死という悲しみを乗り越えて精肉販売を始める
明治四十年から大正五年までの十年間、新通りの「山下」で働き、肉の仕事を学び、番頭までなった善作の給料は月「拾弐圓」。これは決して少ない額ではありません。むしろ当時の世間では高額の域に入ります。
時代は明治から大正へと移り、洋食文化も一般に広まり始めました。「これからは日本も肉文化の時代になる、肉屋の時代がやって来る」そう確信し、善作は独立を考えるようになったのです。
明治末期に妻しもと結婚し、明治四十四年に長男要弌(当店二代目)も誕生しているのですから、三十代になって独立を考えることは、男として当然のことです。
大正五年、「山下」に暇をもらい、大正六年、善作三十二歳の春に、七間町通り(現在の七ぶらシネマ通り)のはずれに店舗を借り、開店準備を始めました。夏期に氷販売をしてから、冬期に精肉販売をすることにしました。
当時の肉料理は牛鍋が中心で、冬期にしか需要はありませんでした。それに、家庭に冷蔵庫もない時代では、夏期に精肉を販売しても、肉を家庭で保存することができなかったのです。当時の精肉小売業というものは肉料理屋のおまけ、というような考え方が世の中を支配していました。「山下」「三笑亭」などは、精肉小売り販売よりも肉料理屋が本業だったのです。
「山下」での仕事が、料理ではなく精肉担当であった善作にとって、料理店ではなく精肉店で独立したいと考えるのは当然のことでした。
また、資金面で考えても、善作には料理店を開店する力などなく、これから伸びるであろう洋食店への卸売りと一般家庭への小売りを中心とした精肉店での開店を考えたのでした。
善作の妻しもは、大正六年九月九日に死去しました。修業時代、そして独立してからの夏期の氷販売は見せることはできても、大石精肉店の肉屋としての冬期開店を見せることができなかった善作の気持ち、しもの気持ちを考えると切なくなります。
四代目の私に残された初代善作からの遺言は、「肉屋であり続けること」でした。近年、惣菜店へと変わっていく精肉店が多い中で、「軸足を大切にしなさい」という意味であろうと考えていましたが、「肉屋であり続けること」は、大石精肉店の肉屋としての開店を目前にこの世を去った妻への一番の供養であるという善作からのメッセージと、私には受け止めることができるのです。

| 大石精肉店 | 12:06 | comments (0) | trackback (0) | - |
【第二話】創業者善作が新通り・山下家の精肉部門の番頭に
当店の始まりは、新通り・山下家にありました。米店、茶店と相次いで廃業をし、家屋敷を失った大石家は、身内の縁で新通りの山下家に家族全員で居候することになったのです。
明治中期の新通り一丁目は、旧東海道であり静岡市の一等地でした。この地で慶応二年、山下豊吉氏が牛肉販売を始めました。静岡市で始めて牛肉販売を業としたのは、元治元年、新谷町(現在の御幸町)望月茂平氏で、山下豊吉氏は二番目でした。大石家が山下家に入ったのは創業者豊吉氏の代ではなく、長男銀蔵氏が牛肉販売を営んでいる時でした。
明治時代の牛肉販売業とは、料理店が主業で、自家で料理(牛鍋)し、精肉も販売するほかに屠殺(とさつ)もし、またその当時の商習慣で氷の販売も行っていました。山下家では、静岡連隊にも牛肉を供給していたそうです。
屠殺は当初、安倍川の河原で行われ、その後(年不詳)七番町に屠殺法により屠殺場が設けられ、明治三十九年まで続きました。この屠殺場は、山下銀蔵氏、大石熊吉氏(当店とは無関係)、大橋金之助氏による合資会社でした。
まだ「士族」などの身分制度の名残りがあった時代でしたから、俗称「四足」(よつあし)と呼ばれる牛の肉を一般に食すことはしても、扱うことは卑しいことという現代人には想像もできない考え方が世の中を支配していた当時の状況からして、屠殺を兼ねる牛肉販売業を始めることは、相当思い切ったことだったのです。
山下家の、今後の日本の食文化の流れを考えた「先見の明」と「進取の力」そして「決断と実行」にはただ頭が下がる思いです。
大石吉蔵の長男、大石善作(当店創業者)は居候の息子ではありましたが、この牛肉料理店の精肉部門の番頭を任されるまでになったのです。
熱心に仕事をして家族を養うことができるようになった善作は、妻しもと結婚し、明治四十四年、長男要弌(よういち 当店二代目)が誕生したのです。

※本内容は、新通・山下家ご協力のもと「山下栄蔵伝」(昭和五十一年刊)を参考にしました。

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【第一話】庄屋・米屋・茶屋と商いを変えて
大石家は江戸時代、谷津山周辺の庄屋でした(菩提寺は瓦場町・元長寺)。駿府は天領であり、年貢で苦労することもなく過ごして来たそうです。
そして時代は幕末から明治へ。土地を小作人に分けた後、大石家は庄屋から米屋へと商売を変えました。父を亡くして店を継いだ吉蔵は米屋に失敗し、茶の小売業へと業種を変えました。ですが、それも失敗するのでした。
どうやら、その理由は、吉蔵は八人姉妹の後に生まれた末っ子の男一人で両親から可愛がられ、学問は仕込まれたが商売の駆け引きは仕込まれなかったようです。
というこで、商売を起こしても、明治という激動の時代の中で商いはうまく行かず、現実から逃れるために酒を飲む事だけが楽しみという日々を重ね、ついに家屋敷を手放すことになりました。
住む場所を失い、妻と子どもたちを連れて向かった先は、新通りの山下家。吉蔵の妻ふさの実妹の嫁ぎ先です。山下家で家族と共に居候の生活を送ることになった吉蔵の長男が、大石精肉店創業者・善作であり、この山下家から大石精肉店が生まれることになるのです。

| 大石精肉店 | 11:21 | comments (0) | trackback (0) | - |